LGBTのチェックや割合と人権のまとめ 病気なのか世界的に考察する

LGBTのチェック

まず、簡単にLGBTとは、レズビアン(女性に対する同性愛者)、ゲイ(男性に対する同性愛者)、バイセクシャル(男性と女性の両性愛者)、トランスジェンダー(生まれたときの性別と本人が自覚する性別の不一致)の英語の頭文字を組み合わせたを文字であり、上記の4つの方々をまとめた集団のことを示します。

LGBTの人は、外見は普通の人とそれほど変わらず、性の対象への違いに悩みながら、マイノリティとして生活しています。

では、LGBTだと、具体的にチェックする方法はあるのでしょうか?

例えば、LGBTの中でも、トランスジェンダーに悩まされている方は、ジェンダー専門の外来がある病院で悩みをうちあければ、専門医が診断してくれます。

そのトランスジェンダーを性同一性障害の病気として見てくれる病院は、調べれば少数ながらも全国にあります。

それで、性同一性障害の診断がでれば、性別適合手術の許可を受けることができます。

ただし、ほかのレズビアン、ゲイ、バイセクシャルに関しては、恋愛や結婚に関しての性的志向なので、病気とするべきではないという意見が世界的にあります。

しかし、他人と性に対する考えが違うことが原因で、うつ病になるまで悩まされたりするときは、精神科や心療内科にいくべきです。

LGBTの割合と人権

LGBTが日本人口に占める割合は、どれくらいあるのでしょうか?

それは、過去に行われたアンケート調査で、全人口の8%で、13人に1人の割合だといわれています。

この割合は、世界のLGBTの割合を見ても、それほど少なくない割合です。

確かに、LGBTはマイノリティですが、社会的少数者でも、自身の人権を主張していくには十分な数だと思います。

近い話で、ある議員から、LGBTは子孫も残せず、生産性が低いという意見がありましたが、私は違うと考えます。

LGBTの人は、統計的に仕事のできる人が多い傾向にあり、労働生産性は高いと考えられているのです。

今は、普通の性的傾向を持つ人でも、結婚して子供を残すかは、自由に選択できる時代になっており、単純に生産性の低さをかたるべきではないのです。

女性の社会参加が制限されて、男性しか働けなかった時代、つまり、男は仕事、女は家事だと決めつけられていたときは、LGBTの人はかなり生きにくかったことでしょう。

昭和から平成初期までは、結婚のほとんどが見合い結婚であり、これを防ぐには、両親にもLGBTの正体をさらす必要がありました。

年功序列型の賃金や終身雇用制度が男性をしばっていたのです。

逆に、女性は、専業主婦になるか、寿退社するしか選択肢がありませんでした。

戦後になって、LGBTの議員が立候補して、マイノリティの人権を訴えたり、集団で性的少数者のための組織を集団でつくり、LGBTの権利を主張しています。

そして、LGBTの人のほとんどは、学校や会社などで、自身がLGBTであることを公開するのに差別がなければ、正体をうちあけたいと考えているのです。

今の自由な社会の風潮なら、ひょっとしてなら可能かもしれません。

世界のLGBTのまとめ

世界では、1970年頃と2009年あたりに、本格的なゲイパレードが行われました。

これは、同性愛者への差別撤廃を求める大規模なデモ活動です。

アイスランドでは、2010年に、世界で初めて同性婚を認める判断をしました。

それから、2014年にインドで、2015年にアメリカで同性婚を認めるという議案が採択されたのです。

つまり、つい最近になって、同性婚に対する偏見が世界的になくなってきたのだといえます。

日本も、世界の流れからは遅れてはいますが、将来的に、LGBTの自由や権利が偏見もなく認められることを願ってます。

国際

昭和天皇は命乞いしたのか マッカーサーの戦犯処刑を防いだカリスマ性や天皇批判について

昭和天皇にカリスマ性はあったのか

明治維新から戦後に至るまで、大正天皇が病弱でわずかな期間しか天皇の政務を行えなかったので、印象が強いのは、明治天皇と昭和天皇だったと思います。

明治天皇は、幕府よりの思想があったためにこれを嫌った維新志士から孝明天皇が暗殺されたあと、のちにすり替えで天皇の血をひいていないのに、天皇にさせられたとの陰謀が噂されます。

実際、それは真実かどうかは分かりません。

そして、その血を引く昭和天皇は、見た目は、とにかく真面目で実直な君主であるような外見をしています。

当然、戦前は、天皇の人間宣言があるまでは、本当に神様のように日本国民から愛されていたので、そのような帝王学を学んでいなければおかしいでしょう。

昭和天皇は、まず、小さい頃に、日露戦争の陸戦で多大な犠牲者をだすなど、苦い経験をしましたが、勇猛に戦った乃木希典から、質素でぜいたくをしない生き方を学びました。

そして、日露戦争で、当時、海軍最強のロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎から、帝王学の基礎を学んだとされています。

しかし、本人は、東郷平八郎とそれほど接点はなかったように語っています。

その後、昭和天皇は、若いときに、ヨーロッパを訪問したらしいです。

イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアに行ったとされています。

その後、アメリカにも渡りました。

こうして見ると、王様のような扱いを受けていたようですね。

カリスマとは、非人間性をもつ英雄であり、人をひきつける才能だとされています。

ある意味、天皇というだけで、国民から神様のような目で見られていたので、カリスマ性はあったでしょう。

戦後も、天皇が象徴的な扱いになっても、国民からは常に話題の人となっていました。

昭和天皇の汚点とは

では、ここから、今でも、国民から、昭和天皇が悪いように言われていることを紹介します。

それは、米国との勝ち目のない戦争をなぜ止められなかったという点です。

カリスマ性があるなら、独裁になったとしても、強権で戦争をなぜ止めなかったと批判を受けています。

仕方なく軍部の暴走で戦争を受け入れても、せめて、ミッドウェー海戦で負け始めてから、サイパン陥落あたりで講和をすれば、戦死者の被害も少なくすんだという理屈もあります。

しかし、当時、米国は、日本の無条件降伏しか認めないつもりでした。

わざわざ相手の有利な条件で講和なんてさせてくれません。

戦争は始めることは簡単ですが、終わらせることはとても難しいのです。

したがって、そうなると、沖縄本土決戦や東京や全国の大空襲になるまで、被害を受け入れなければなりません。

なぜなら、日本の無条件降伏を認めるポツダム宣言が発表されたのが、1945年7月26日だからです。

そうなると、昭和天皇が国民の生命を救えるギリギリのターニングポイントは、8月6日の広島の原子爆弾が落ちるまでに無条件降伏ができるかということです。

しかし、結局、広島、長崎に原子爆弾が落とされ、ようやく8月15日に日本政府は無条件降伏を認めるようになりました。

米国側も核兵器の人体実験をしたかったという思惑はありましたが、日本中が破壊つくされたのちの8月15日に、終戦確定の無条件降伏という形になったのです。

これが、後の世に、昭和天皇が批判される点であったのだといえます。

ただし、この点について弁明があれば、昭和天皇が、戦前、心がけていたことは、天皇自身が、政治に極力介入しないということでした。

天皇陛下自身が独裁者として政治を行うことを、極力なくそうとしていたのです。

集団で相談しながら物事を決めるというシステムに口出ししないところが、昭和天皇にはあったのです。

そのきっかけが、田中儀一内閣の総辞職でした。

当時、昭和天皇は、田中儀一首相の落ち度を厳しく叱責し、最終的に死に追い込んだというトラウマがあるのです。

以後、天皇は、政治に口出すことをしなかったのです。

このことが不幸にも、勝ち目のない戦争の悲劇をよびこんでしまったのだともいえます。

従って、昭和天皇のカリスマ性は少しあったかもしれませんが、戦争を止めた英雄にはなれませんでした。

マッカーサーによる戦犯処刑の危機

戦後、無条件降伏をした日本では、戦争に参加した関係者が戦犯として、処刑を受ける運命にありました。

もちろん、昭和天皇も例外ではなかったのです。

米国側の代表者であるマッカーサーは、天皇が命乞いでもしてきたら処刑しようと決めていました。

ところが、昭和天皇は、命乞いをするどころか、自分の命はどうなってもいいから、国民の食糧危機を救ってほしいと述べました。

これに、マッカーサーは感銘を受け、親日になったといわれています。

ただ、このエピソードは、真実かどうかは分かりません。

アメリカも天皇を利用するうえで必要としていたかもしれませんし、天皇が命乞いをしたかどうかも不明です。

真実は、永遠に闇の中です。

国際

急落したトルコリラ スワップポイント生活の崩壊 日本人と親しい国トルコの危機

トルコリアの急落

今回、トルコの通貨であるトルコリアの急落を招いた原因は、アメリカとトルコの喧嘩でしょう。

トルコは、なんと、アメリカ人牧師を拘束してしまったらしいのです。

それも、政府に対するクーデターを画策していたというためです。

それほどの重罪なら、たとえ、未遂といえども、牧師を拘束する大義名分はトルコにあると思います。

しかし、アメリカ側は、牧師の解放を要求してきました。

無茶ぶりともいえる注文に、トルコ側は反対し、政治の陰謀や負けを認めない宣言を、エルドアン大統領はしました。

起源になっても、アメリカ人牧師は帰ってきません。

そうなると、アメリカのトランプ大統領は激怒します。

その報復として、大国アメリカお得意の制裁措置を発動しました。

トルコから輸入する鉄鋼とアルミニウムに加えられている追加の関税を2倍にしてしまうというのです。

これにより、トルコだけでなく、新興国の経済は大パニック。

先進国も間違いなく、株や為替などに影響を大きく受けてます。

トルコの通貨であるトルコリラは急落してしまいました。

今になっても、アメリカとトルコは、仲直りすることなく、混乱が続いています。

結局、トルコ国内の通貨の価値が安くなったら、価格の高騰が起こり、インフレが発生してしまうので、政策金利の利上げを行うべきです。

ところが、エルドアン大統領は、政策金利の利下げをすれば、インフレは落ち着くという意味不明な考えを述べています。

これにより、トルコの国内情勢は、今後、混乱はまぬがれないようです。

アメリカとトルコ、IS(イスラム国)との戦争に対して、意見の相違があったことから、元々、仲はあまりよくない関係でした。

今回のことで、かなり険悪な関係へと発展してしまったようです。

FXスワップポイント生活の崩壊

FX投資家の中では、トルコリラのスワップ金利が高いことが魅力であり、トルコリラを長期保有して、スワップを安定的に得ようとする投資家がたくさんいました。

ただし、今、スワップポイント狙いからトルコリラを持っていた人にとっては最悪の事態でしょう。

トルコリラの急落があまりに激しいため、トルコリラでスワップ金利を持っていた人は、多額の損切りかロスカットをしなければなりません。

つまり、トルコリラの長期保有は現実的に不可能なのです。

これこそ、FXスワップポイント生活の崩壊といえるでしょう。

為替相場は生き物なので、突然、イレギュラーな事態におそわれます。

特に、トルコリラのような新興国のマイナーな通貨は、その頻度が、ドル・ユーロ・円に比べて、異様に多く、危険で急激な値動きをします。

だから、安全に安定した投資したい人には、メジャー通貨で、できるだけ長期保有しないトレードをおすすめします。

為替差益を狙ったスイングトレードで、長くて1週間の保有ですましたり、時間のある人は、スキャルピングよりスプレッドの影響を受けず、長く持つが1日で完結させるデイトレードを行うことを勧めます。

スワップ金利のトレードは、よほどの天才でなければ不可能です。

怖くて為替の変化にビクビクした生活をおくらねばなりません。

日本人とトルコ人の関係

終わりに、今、アメリカとは仲が悪いですが、トルコは親日国家です。

彼らは、男女問わず、日本人が大好きです。

だから、日本人男性や日本人女性は異様にモテます。

では、なぜ、トルコは日本人が好きなのでしょうか?

それは、明治時代、ロシアの脅威を恐れていたトルコが、日本が日露戦争に勝利したため、非常に感銘を受けたためです。

これにならって、トルコ自身も日本の近代化を模倣しました。

また、エルトゥールル号といわれる船が沈没したとき、日本人はトルコ人の救出を行いました。

さらに、その犠牲者の遺族に対する義援金まで集めたというのです。

これで、日本とトルコの関係が接近し、仲が良くなったというわけです。

国際

長崎原爆の日 原子爆弾の名前や爆心地からの投下範囲 生存者の実態

長崎原爆の日に至る経緯

1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下されました。

広島に続く形で、2発目の核兵器の使用です。

これは、長崎県長崎市に落とされたものが、人類史上最後の核兵器使用だったことを示しています。

これ以降、約70年以上、戦争の実戦で核兵器が使用されなかったことは、ある意味、すごいことでしょう。

実は、当時の米軍は、早く日本が無条件降伏しなければ、合計で12発の原子爆弾を使用する予定でした。

その中に、東京も含まれていたくらいですから、被害ははかりしれませんでした。

話を戻しますが、長崎の原子爆弾によって、死者がおおよそ7万4千人ほどの被害になったらしいです。

当時の長崎市の人口が24万人ですから、だいたい3分の1の人が亡くなったことなります。

広島の原子爆弾と比較しても、人口が1日でいっきに減る被害に変わりありません。

核兵器を使った以上、1発でも、日本という国家自体、大ダメージを受けてしまいます。

こうした被害を受けて、8月9日を長崎原爆の日と定めました。

毎年、長崎原爆の日では、二度と核兵器が使用されないように、平和記念式典がとり行われています。

原子爆弾の名前と投下範囲

長崎に落とされた原子爆弾の名前は、通称、「ファットマン」といわれています。

名前から推測するに、ふくらんだ形状がイメージできますが、実際のところは良くわかりません。

この原子爆弾は、当初、北九州の福岡県小倉市に落とすはずでした。

かりにそうなっていれば、広島の原爆を上回る被害になっていたことでしょう。

しかし、悪天候で発射目標の街を確認することができず、燃料にも限界がありました。

これにより、次なる目標の長崎市へと原爆を投下することになったのです。

このファットマンの威力は、広島の原爆リトルボーイを上回るものでした。

これは、プルトニウム239を使った爆弾であるため、広島の約1.5倍の破壊力が達成されていたのです。

爆心地は、あとかたもなくなり、その範囲は、ただ荒野だけが続いたらしいです。

建物もふき飛ばされて、ひどい惨状のありさまでした。

人々は、あとかたもなく飛び散り、爆心地からある程度離れた範囲でも、ひどければ、全身に大火傷を負うなどの状態です。

生存者である被爆者の実態

原爆の爆心地から3キロメートル離れた距離で、爆弾が爆発した瞬間、光が発生し、隠れた机に割れたガラスが突き刺さるひどさだったらしいです。

その生存者が、爆心地からわずか数百メートルの距離に行くと、おびただしい死体ばかりがころがっていました。

被爆者は放射能の後遺症に苦しみます。

その影響で、当時、人体は悪化し、突然死する人もあらわれたらしいです。

広島や長崎に落ちた原子爆弾はピカドンという名称で全国に広がりました。

周囲には、ピカドンの毒はうつるということで、被爆者の方々を差別していたみたいです。

今では、当時の偏見が忘れられて、風化したように思えます。

ちょうど、現代でも、東日本大震災の原子力発電所の放射能漏れも、そこに住んでいる人間や野菜や肉などに、放射線の悪影響がないか懸念されました。

当時の被爆者も歳をとって、80代をむかえるまでになりました。

ところが、当時の記憶は、トラウマとして鮮明に覚えているようなのです。

また、ひどい情報では、広島と長崎の被爆者の人体実験の記録を、戦後、米国に渡していたのです。

核実験を初の実戦で用いたため、とても必要だったのでしょう。

降伏した敗戦国であるため、反抗するすべも、もはやありません。

結局、戦争回避をギリギリまで行いましたが、勝ち目のない戦争をして、全てを失う結果になりました。

資源のない大日本帝国が、石油の輸入を米国にストップされたのですから、どうしようもありません。

国際

広島の原爆の威力とは 死者と被爆範囲を考える

広島の原爆の威力と被爆範囲

1945年8月6日に投下された広島の原爆。

これにより、日本は大きな被害をこうむりました。

では、この原子爆弾「リトルボーイ」の威力はどれほどのものだったのでしょうか?

これは、原子の核分裂反応を利用した爆弾であるため、難しい科学の用語で説明しなければなりません。

詳しい科学式などは、ウィキペディアに掲載されています。

なかなか多くの人にとって、広島の原子爆弾の威力は理解しがたいことがらでしょう。

見ただけでは、威力のイメージも難しいかもしれません。

ただし、確かなのは、相対性理論を確立した科学者、アインシュタイン氏は、原子に莫大なエネルギーが秘められていると説明しています。

彼は、原子爆弾の製造に関わり、のちに後悔していました。

確かに、原子爆弾の原料とされるウランが、核分裂反応で、爆発のエネルギーとしては、強力なエネルギーをだすことは確かです。

実際に、原子爆弾は、放射線をだし、強すぎる熱風を放出しました。

このことが、人体にかなり悪い影響を与えたといえます。

まず、ふりかかる熱線のおかげで、熱傷やケロイドのやけどのような傷跡に悩まされました。

しかし、それだけでなく、さらに深刻な影響を与えたのは、放射線による病気です。

特に、高濃度の放射線をあびた人は、高い確率で白血病になり、当時は不治の病で治せないまま命を落としていったらしいです。

まだ、これらは、爆心地からある程度、離れていた場合か、直接爆風を受けていない場合です。

そのため、空中爆発して、爆心地1キロメートル以内の範囲では、6000度の熱が生じ、人体は、ほとんど蒸発してしまいました。

本当に、広島の原子爆弾の威力によって、あとかたもなく、消滅したのです。

また、爆心地2キロメートル以内の範囲では、木造住宅のほぼ全てが燃えています。

爆風による死亡も、威力によるところが大きいです。

爆風は、450m/秒の風がふき、人間の手足や皮膚をバラバラにひきちぎっていきました。

内臓も破裂してしまい、眼球が飛び出てしまうなどの被害があります。

原子爆弾は、まさに最悪の核兵器だったといえるでしょう。

なぜ原子爆弾が投下されたか

当時の日本軍は、負けていて制空権までとられ、本土決戦の戦闘範囲しかなく、空襲まで受けていたのに、戦勝ムード一色でした。

一部の軍部に支配された政府やメディア以外、本当の情報は秘密とされていたのです。

これが、嘘の情報に支配されて、どんなことになっても降伏しない大日本帝国の国民にさせたともいえます。

神風特攻隊の突撃や魚雷に乗り込んでの特攻で死んでいった若者は数しれません。

そんな決して降伏しない日本兵を恐れた米軍は、沖縄本土決戦を行い、日本軍を追いつめていきます。

それで、予想以上の被害を受けた米軍は、それでも降伏しない日本軍に、原子爆弾でトドメをさしたのです。

実は、日本軍側も原子爆弾を持っていました。

しかし、人道的にこれ以上の戦火はあってはならないと考え、大日本帝国は降伏したのです。

日本軍を降伏させるほど、原子爆弾の核兵器は威力が大きすぎました。

広島の原子爆弾による死者数

人が消えてしまうほどの威力だった原子爆弾の死者数は、残念ながら、現代の技術を持ってしても正確に把握できません。

ただ、1945年時点で、14万人が死亡してしまったといわれています。

当時の人口から考えて、死者数は膨大な数でしょう。

その後も、放射能による障害や火傷の影響で、亡くなってしまった人も加えられるはずです。

この原子爆弾の威力による被害を忘れないためにも、毎年、8月6日には、平和記念式典が行われています。

日本は、核兵器により被害を受けた唯一の国です。

そのため、核兵器の使用は非核三原則により、禁止されています。

戦争も行うことも、憲法を改正しない限りできません。

今後、また戦争や核兵器にふりまわされる日がくるかもしれません。

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